大阪府大阪市にある「有限会社奥進システム」で企業や団体のホームページ制作に従事する浦田梨佐(うらた・りさ)さんは、「広汎性発達障害」の診断を受けています。言語化やコミュニケーションが苦手な特性があり、小中学生のときには「選択性かん黙」に苦しみました。一時期は不登校になったこともあるという浦田さんに、当時の思いや、状況を変えるきっかけとなったことなどについてお聞きしました。
家では話せるのに、学校に行くと話せない
浦田さんの小中学校時代について教えてください。
3歳頃から「自分は周りの子と少し違うかもしれない」という違和感を抱いていました。小学校に入学したくらいから、家や放課後の遊び場では普通に話せるのに、学校に行くと話せなくなってしまう「選択性かん黙(場面かん黙)」の症状が出始め、同級生たちとほとんどコミュニケーションを取れませんでした。周りの子には「この子なんでしゃべらないの?」とマイナスな捉え方をされてしまい、一部の同級生から「『あー』って言ってみて」とからかわれるなど、嫌な思いをしたこともあります。
一方で、1人でいると「遊びに行こう。鬼ごっこしようや」と誘ってくれる子もいました。小学1年生のときに同じクラスになって仲良くなれた親友が1人だけいて、学校でもその子とだけは話すことができました。
「選択性かん黙」やコミュニケーションが苦手という特性がある中で、助けられたと感じた教師の働きかけ、配慮があれば教えてください。
大きなものとして、唯一の親友とは6年間を通して同じクラスにしてもらえました。担任の先生方も、私が彼女となら話せることを知ってくれていたからです。
また、体育の時間に2人組になって活動をするとき、他の子に声をかけられないでいたら「誰か浦田さんと一緒になってあげて」とフォローをしてくださることもありました。他教科でもグループ学習で発言することができずに困っていると、先生が近くに来てくれて、私の意見を聞き取りグループに伝えてくれるといったサポートをしてもらえましたね。
担任の先生とは、他の子もいる場で話すのは苦手だったのですが、1対1であればなんとか小さな声で話すことができたんです。何かあれば先生に相談できるという安心感があり、とても頼りにしていました。
「この先生がいるなら学校に行っても大丈夫」と思えた
そうした中でも小学4年生のときに不登校になってしまったそうですが、何かきっかけがあったのでしょうか?
不登校になった理由は、クラスの子とうまく話せないつらさが積み重なったからでした。
親友には私の他にも友達がいるので、常に私とだけいてくれるわけではありません。1人でいることも多い状況をずっと我慢していたのですが、小学4年生の終わり頃、風邪で数日休んだことをきっかけに、登校できなくなってしまいました。
不登校だった期間は1年弱です。その間、週に1回ほどのペースで、担任の先生が休み時間になるとわざわざ自宅に来て雑談をするといったフォローをしてくれました。当時はこの対応を普通のことのように受け取っていましたが、今考えると私のためにそこまでしてくれる、いい先生に恵まれていたのだと感じます。こうした配慮から私の中で先生に対する信頼度が上がり、「この先生がいるなら、学校に行っても大丈夫かな」と思えたことで、5年生の途中からまた登校できるようになりました。
信頼できる先生の存在は心強かったですよね。逆に今振り返ってみて、「こんな対応をしてもらえるとありがたかった」と感じることはありますか。
発表会や国語の教科書を読むとき、声が小さな人は「やり直し」をさせられる中で、私は声を出せなくてもOKにしてもらえていました。これも先生方による配慮だったと分かってはいるのですが、クラスメイトからは「特別扱いされている」と、嫌がらせをされることもありました。本音を言えば、私もやり直しでいいから、特別扱いと思われないようにしてもらえた方がありがたかったかもしれません。
ときには、「そんなふうに配慮をしてもらうくらいなら、いっそ学校に行かない方がよかったのかな」と考えてしまうこともありました。ただ、「特別扱い」はしてほしくない一方で、やっぱり先生たちの配慮がなければ普通にクラスで過ごしていけないのも現実でした。この点についてどうしてもらったらよかったのかは、今でも難しい問題だと考えています。
環境を変えたことが契機に
「選択性かん黙」は、どのようなきっかけで改善されていったのでしょうか?
一番大きなきっかけは、家から少し遠い高校に入学し、話せなかった時代を知っている人がいない環境に変わったことです。中学校への進学では同級生の顔ぶれが小学校時代からほぼ変わらなかったため、話せないことや不登校だったことを知っている人が多くいます。そのため、私自身の心境的にも変わるのは難しく、中学校でもほとんどしゃべれないままでした。この経験から「高校では環境を変えよう」と思ったんです。
当時、「環境を変えたら学校でも話せるはず」という確信めいたものもあり、他に進学する子があまりいない高校を自分で選んで無事に入学しました。だからといって急に"明るくおしゃべりな子"になることはできませんでしたが、それでもほとんど話せないという状況は抜け出して、学校でも普通に過ごせるようになっていきました。
環境の変化は大きかったのですね。もし、今の浦田さんが子どもの頃の自分にメッセージを送れるとしたら、どんな言葉をかけてあげたいですか?
まずは「よく頑張ったね」と言ってあげたいです。
また、私は大人になってから先生方のサポートのありがたみをとても感じており、あの頃先生にもっと心を開いて話していたら状況は違ったのかなと思っています。ですから、もしアドバイスをするなら「もっと先生に頼って大丈夫だよ」と伝えたいです。
自身の特性との向き合い方や学校生活がうまくいかなくて困っている子どもたちには、「"学校に行くこと"に対して無理をしないで」と言ってあげたいです。不登校の時期があっても、私のように大人になって働くこともできます。 今はしんどい、つらいと感じている子どもたちも、大人になるまでずっとつらい時期が続くわけではないということを伝えたいですね。
(取材・文:渡部 彩香(Playce))
(撮影:合田 慎二)
※このページに書いてある内容は取材日(2023年12月05日)時点のものです。
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