SNS総フォロワー数60万人以上を誇り、多くの人から支持を集めるインフルエンサー、難聴うさぎ(なんちょう・うさぎ)さん。SNSで自身の障害についての情報を発信するほか、会社経営者、タレントとしても活躍しています。彼女が支持されている最大の理由は、難聴であることを前向きに捉え、常に自由かつパワフルに人生を謳歌していること。「障害者が不自由を感じない世界をつくりたい」「障害は個性の一つ。耳が聞こえなくても、いろいろなことに挑戦できることを多くの人に伝えたい」と語る彼女に、学校の先生や友人とのコミュニケーションについてや、自身の障害を前向きに捉えるきっかけとなった出来事、伝えたいメッセージなどをお伺いしました。

やりたいことを先生に否定されなかったことが心の救いに

学校の先生とは、どのようなコミュニケーションを取っていましたか。

先生たちとはとても仲が良く、何でも相談していました。当時から私は多くの夢を持っていて、中学生の頃には「芸能界に入りたい」と先生に伝えていましたし、高校生の頃には芸能界以外にも、「社長になりたい」「YouTuberになりたい」「世界一周旅行をしたい」「本を出版したい」などと、「将来やりたいことリスト」を書いて配っていました。
嬉しかったのは、先生たちがそれを一切否定しなかったこと。心のどこかで「『あなたは耳が聞こえないから無理だよ』と言われるのではないか」と恐れていた私は、その対応に救われました。
ほかにも、普段から口の動きをしっかり見せるようにしゃべっていただいたり、私の話す言葉のイントネーションが違っていたらその場で教えていただいたりしました。特に、話しているその場で指摘してもらえたのは、とても助けになりました。

そして、「本を出版したい」という夢が実現しました。

はい。初のエッセイ本『音のない世界でコミュ力を磨く』を出版しました。生まれつき耳が聞こえない私がインフルエンサー「難聴うさぎ」になるまでの体験談と、「人生の主人公は自分自身。どう生きるかは自分で決めて、やりたいことに挑戦しよう」というメッセージを、さまざまなエピソードとともに綴っています。
出版後、学生時代の先生方にも読んでいただきたいと思いました。好奇心旺盛であるのと同時にとてもわがままで自分本位な性格だった私が、このような本を出すことができたのです!先生方に感謝の気持ちを伝えるために、帰省した際にこの本をお渡ししたのですが、「地元のみんな、発売してすぐに買ったよ」「授業で、本を朗読してみんなに聞かせたよ」などと、たくさんの言葉をいただいて本当に嬉しくなりました

当時の先生たちは、今の難聴うさぎさんの姿を見てとても喜んでいらっしゃるのではないですか。

そうですね。実は先日、当時の先生たちと会う機会があり、「当時から全然変わっていないね」と言われました。そのとき、小学校1年から5年までの通級指導教室の担任だった先生が、当時付けていた私の観察日記のようなものを見せてくれたんです。「教科書の違うページを開いていたので注意したら、とても嫌がっていた。しばらく遠くから見守ることにした」などと、とても細かく書かれていてびっくりしました。こんなにまで、私のことを理解しようと歩み寄っていただいていたとは!私が嫌がることは、手を出さずに我慢してくれる。そして、私の考えを否定せずに自由に生きることを温かく見守ってくれる。そんな先生の優しさを改めて感じたひとときでした

学校での友達とのコミュニケーションはいかがでしたか。

友達と話すことは幼少期から大好きでしたが、小学校に入ると少し関わり方が変わってきました。目立つことが大好きだった私は、「注目されたい」「みんなに寄ってきてもらいたい」と思う反面、大人数での会話となると読唇術では読み切れず、とても話しづらいことに気付きました。誰から話し始めるのか分からない状況のなか、たくさんの人の口を同時に見て発言内容を理解し、さらには自分が話したいことを頭の中でまとめて瞬時に発言するということは、とても疲れる作業です。そのため、言いたいことがあっても「他の子がすでに発言した内容かもしれない」と思って口をはさめなかったことが何度もありました
また、大人数で遊ぶ「花いちもんめ」や「フルーツバスケット」などにも参加できませんでした。花いちもんめでは歌いながら「〇〇ちゃんがほしい」などと指名されますし、フルーツバスケットでは「バナナの人は移動!」などと号令がかかる場面がありますよね。これらがいつ来るのか、そのタイミングが私には分からないんです。今の私であれば、「名前を呼ばれたら教えて!」「移動するタイミングが来たら教えて!」と躊躇なく友達に頼むところですが、当時の私にはその勇気がありませんでした。こういったことから、私はだんだん大人数で遊ぶことをあきらめて、少人数で話すことが多くなりました。

聞こえないままでいいんだ! 自分が作文を評価され自信が持てた

大人数でのコミュニケーションを避けていた難聴うさぎさんが、多くの人に自分のことを発信するようになったきっかけが学生時代にあったそうですね。そのエピソードについて教えてください。

多くの人に発信することの大切さに気付いたのは、中学3年生のときのことでした。学校の宿題で人権作文を書くことになったのですが、最初は何を書いていいのか全く思い付きませんでした。しかし、「自分のことなら書けるな」と思い直して自分の障害について書き始めたところ、最後まですらすら書くことができたのです
提出後、先生から「あなたの作文がクラスの中で一番良かった。ぜひ、全校生徒の前で読んでほしい」との打診がありました。発表する自信も勇気もないし、自分の障害のことで注目を浴びることに不安もあり、とても戸惑いました。ですが、「発表したら、何かが変わるかもしれない」という好奇心も湧き、発表することにしたんです
発表後、クラスメイトから「とても良かったよ」と声を掛けてもらえたばかりか、作文コンクールの島根県大会で最優秀賞に選ばれました。新聞にも掲載され、「感動しました」というお手紙をいただいたこともあります。作文という発信を通して、私の言葉が多くの人に届き、心を動かしたという事実。これはとても衝撃的でしたし、同時に、「耳が聞こえなくてもいいんだ」と気付き、「耳が聞こえない自分を、私自身が受け入れよう」「もっと発信しよう」と考えるきっかけにもなりました

人生は一度きり! 誰もが、自分自身の人生の主人公になってほしい

最後に、さまざまな活動を通して難聴うさぎさんが一番伝えたいメッセージを、改めてお聞かせいただけますか。

障害の有無に関わらず多くの人に、「人生は一人ひとりが主役なのだから、他人が決めた人生を歩まなくてもいいんだよ」「耳が聞こえなくても、人は前向きに生きられる!」ということを伝えたいです。他人が敷いたレールに乗って、「できること」だけを選択するのではなく、「やりたいこと」にどんどんチャレンジしてほしいと思います。
私も、「芸能人になりたい」という夢を実現させるため、中学生のとき、ティーン誌に載っていた読者モデルのオーディションに何度も応募しています。結局、合格することはなかったのですが、夢をあきらめたことは一度もありませんでした。オーディションに受からないのなら、自分で番組をつくって発信すればいい。このように自分で活路を見出す方法はたくさんあるのです。
自著の「おわりに」にも書きましたが、人生は一度きりです。一度失敗したからといって、夢をあきらめてしまうのは本当にもったいない! 人生には辛いことがたくさんありますが、私はそれらのすべてを「乗り越えるべき試練」だと思うようにしています。「大丈夫。きっと乗り越えられるはずだよ」と、未来を担う子どもたちにも伝えていきたいです

(取材・文:秋山 由香(Playce)・佐藤 理子(Playce))
(撮影:厚地 健太郎)
※このページに書いてある内容は取材日(2023年12月07日)時点のものです。

難聴うさぎさんインタビュー 前編はこちら


難聴うさぎさんの仕事についてもっと知りたい人はこちら

>>EduTownあしたね「難聴うさぎ」

難聴うさぎさんプロフィール

先天性の感音性難聴・聴覚障害3級。生まれつき耳が聞こえず、コミュニケーションは補聴器から伝わる振動と読唇術にて行う。中学3年生のときに自分の障害と向き合った作文が、人権作文コンテストの島根県大会最優秀賞に選ばれ、全国審査で法務省人権擁護局長賞を受賞。住宅メーカーや手話ラウンジでの勤務を経験し、現在は耳についての発信をYouTubeやTikTokなどで行うインフルエンサーに。SNS総フォロワー数は60万人以上(2023年12月現在)。さまざまな障害のある人とも協力し、障害のことを世の中に伝える活動を行っており、講演会の依頼も受付中。著書に『音のない世界でコミュ力を磨く』(KADOKAWA、2023年)がある。